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荷風・幸橋税務署・税制

2014年9月12日 | その他

永井荷風と有名税

永井荷風の著書『断腸亭日乗』に、通知された所得税が前年の倍近いものだったので、幸橋税務署に抗議に行ったら、申し出の趣旨は尤もなれど、「世に有名の文士なれば、実際の収入よりも多額の認定をなすは是非なき次第なり。有名税とも言ふべきものなれば本年は我慢されたし」と言われ、「刀筆の小吏(しょうり)を相手にして議論するも益なき事」と思ってそれ以上の問答はしなかった、と書かれています。

刀筆の小吏(しょうり)

馴染みが薄い「刀筆の小吏」という言葉は、 昔、中国で紙の発明以前に用いた、竹簡に文字を記す筆とその誤りを削る小刀、転じて、筆記具、さらに転じて記録を指し、その記録を司る下級の役人、の意味です。
当時は、現在の住民税と同じく、賦課課税でしたが、課税決定のための情報申告義務はありました。所得調査委員会の調査と申告とに大きな乖離がないときは、申告を尊重するように、などという内示も出ています。

幸橋税務署というのは今はない

現在は、全国に沖縄を含め12の国税局と524の税務署があります。税務署が創設された明治29年(1896年)10月の時は、23の税務管理局と520の税務署が創設されました。
現在の東京都23区内の税務署数は40ありますが、明治29年のときは10で、幸橋税務署はその1つでした。現在は京橋・芝・麻布の各税務署に分かれています。
全国の税務署数に大きな相違はないのですが、都23区内は4倍に増えています。

荷風の時代の税制

当時の賦課課税制度のシステムは、税務署の第一次調査をもとに、所得調査委員会の第二次調査が行われ、調査委員会の決議額で賦課決定される仕組みでした。
税務署の第一次調査は所得標準率をもとに一律に推計した数値を基本とするもので、調査委員会の第二次調査は、地域や納税者の実情に応じた権衡をはかる趣旨で主に削減調整をすることでした。
所得調査委員は地域の納税者代表という性格を持つべく市町村から複選制・記名連記制で選出されています。
賦課課税制度とはいっても、なかなかの民主的な性格をもっています。意外さを感じます。

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